崩れる本棚’s blog

文芸ユニット崩れる本棚の公式ブログ

崩れる本棚の~、崩れなぁ~い、はなしぃ~(ジェイン・エア篇)

こんにちは。こんばんは。ごちそうさま。ありがとう。ふだんの何気ないあいさつが、あなたという人間を創る。ゴタクの長い公共広告機構ことPさんです。次号より『崩れる本棚』書き手として参加させて頂きます。よろしくお願いします。

えーこないだ『崩れる本棚』系列会社のオフ会があり、そこで『崩れる本棚』主催兼ブラック企業社長(敏腕)のウサギさんに「このブログに何か書いてくれませんか?」「しかし君に残業代が出ることはない」「ついでに私のペットのモンモランシーちゃん(ボクサー犬)の大好物のマグロの頬肉(冷凍でないもの)を買ってきてくれ。生のやつを。2分で」みたいな話をされ、まあ何か書いてくれというについては諾と、残業代が出ないについてはまあ仕方がないかと、そしてマグロの頬肉については少し思案をする時間を下さいと、お返事したので何か書かねばなるまいということになりました。

それから社長(敏腕)と具体的に話を進めたところによると、ブログの内容については「別に何でも構わない、とりあえず本の話でもどうですか」と、それから交通費も出せないと、それから「マグロの頬肉(冷凍でない、かつ遺伝子組み換えでない、なぜならうちのモンモランシーちゃん(ボクサー犬)はそういうのビンカンだから)を買ってくるのに三分三十秒もかかるとは何事だ、一分三十秒間モンモランシーちゃん(ボクサー犬)を苦しめた罰を受ける覚悟は出来てるんだろうな」と言われたので、僕は、ブログの内容についてはふつうに本の話をしようかなと、交通費に関してはジェット機を飛ばして築地まで行ったのに出ないのはひどいなと、なんとか千万という数字が滲んだ請求書から仄見えるなと、そして罰として私の腰までを生コンクリートが浸していて今も水位(コンクリ位?)を上げ続けていることに関しては、まあ仕方がないかなと、思いまして。

ぜんぜん本題が来ないよ! 以降ふつうの書き方にします。

僕は女性作家にある系譜を見つつ読み進めていて、それは例えば〈朝吹真理子ヴァージニア・ウルフ-シャーロット・ブロンテ〉というラインで、他にもいろんな分岐があるんだろうけれども、とりあえずはそう見ることにしていて、しかしそれだからといってシャーロット・ブロンテ自体にまだそんなに敬意があるわけではない、前二者は完全に信頼しているけれども。ヴァージニア・ウルフがシャーロット・ブロンテについては、

……私のスープがきた。大きな食堂で晩餐が行われていた。季節は春どころか、實は、十月の夕べであった。みんなが大きな食堂に集まつた。晩餐の用意がととのった。いま、スープがきたのだ。それは澄んだコンソメだった。

ヴァージニア・ウルフ『私だけの部屋 女性と文学』西川正身・安藤一郎譯、新潮社、26p.)

と述べている。

いや、引用箇所を間違えた。

ヴァージニア・ウルフがシャーロット・ブロンテについては、

だが、いま一度讀み返して、彼女の文章に含まれる、この激越な調子、この憤懣に氣がつくと、彼女の天分は、全きかたちのままで表現されることは決してあるまい、ということが分かる。……

(同、101p.)

などと述べている。

今度は引用箇所を間違えなかった。

ヴァージニア・ウルフはその「激越な調子」を持たない、というかその他のいろんな意味において理想の作家としてはシェイクスピアを挙げている。シェイクスピアは未だに素性が詳らかでない。イギリス文学者が血道をあげてその研究にいそしんでいるにも関わらず素性が知れないということはその素性の知れなさこそがシェイクスピアが支えているある種のイギリスという国の国民性をさらに下支えしているのかもしれないが無駄口が過ぎた。別にシャーロット・ブロンテは女性作家という立場を切り拓いたパイオニアではあるけれども、その歴史的地点においてどうしても要らない感情を露わにし作品の一部を価値のないものとしてしまった作家でもあるというヴァージニア・ウルフはスタンスだ。ところでこの「激越な調子」というのは割と現代人には親しみのある感覚であるらしいと実際現代におわす僕が読んでみて思った。それは恨み辛みであり現存する主婦の大半が見ているであろう昼ドラの世界のそれである。

食堂は天井が高く、暗くて大きな部屋だった。細長い二つのテーブルでは、何か熱いものの入った鉢から湯気が出ていたが、愕然としたことにその匂いは、食欲をそそるには程遠いものだった。それを食事としてあてがわれるはずの生徒たちの鼻にその匂いが届くと、みんなの顔に不満の色が浮かぶのがわかった。

(シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア(上)』河島弘美訳、岩波文庫、85-86p.)

いや、引用箇所を間違えた、いや、間違ってるとも別に言えないけど別にここじゃなくていい。

「よくもそんなこと、ですって? だって、(中略)みんな、あなたを善い人だと思っているけど、本当は悪い人です。冷酷な人です。あなたこそ、嘘つきよ!

この言葉を言い終わらないうちに、かつて経験したこともない、自由と勝利の不思議な感覚でわたしの心はふくらみ、はずんだ。それはまるで、目に見えない枷《かせ》が吹き飛んで、思いがけない自由の世界に躍り出たかのようだった。無理もない気持ちだった。……

(同、68-69p.)

悪い姑に今まで留まっていた思いのたけを全部打ち明ける。その時にヨメさんが覚える「自由」の感覚とこれはたぶんほとんど同質のものだろう。だがそこには、積年夢見ていた本当の解放感とはどこか違う後ろめたさがなぜか伴っている。それは実は本当の「自由」ではなかったのだ。では、その本当の自由とは何か? ここでシャーロット・ブロンテが囚われてしまった何か、それに注目することのみが文学なのか? という危機をおそらくヴァージニア・ウルフは感じたのであろう。そこから出るこということはどういうことなのか?

今回はこの辺で。ああ、生コンが胸の高さまで来てしまった。これ、意外と生ぬるいのですね! そして、非常に動きづらい、腕を動かすこともままならない……