崩れる本棚’s blog

文芸ユニット崩れる本棚の公式ブログ

崩れる本棚の~、崩れなぁ~い、はなしぃ~(サミュエル・ベケット篇)

というわけで、『崩れる本棚』社、「崩れない話」部門担当編集、Pさんです。今日も元気にカタカタしております。

引き続き、枯れ木も山の何とやらという喩えもありますゆえ、拙文をわずかながらも埋め草として活用しようではないかという所存にございます。

というか、冷静に見返してみると、前の記事は、なんか何でもいいから本の話をと言われたとはいえ、あまりにも『崩れる本棚』に関係がなく、また唐突な話であったなあと反省することしきりです。

あ、コンクリート詰めにされた件ですか。あれはあのあと、脇から下全てを三メートル立方のコンクリートで固められた末に東京湾にわりとぞんざいに投げ入れられたというところまでは大方ご想像の通りかと思いますが、それからバタフライで泳いで行って、Rain坊ブリッジを越え、太平洋を横断し、無事ハワイにて救出されました。そして再びウサギノヴィッチ社長(敏腕)に謁見を申し入れ、再雇用して下さるように焼き土下座を何度もしたところでようやく、

「許可する。今度、モンモランシーちゃん(ボクサー犬、社長に実際に逢って発音を聞くと「モモランシーちゃん」に近く聞こえるのだが、そこに iPhone をいくら近付けても、Siri が原語でそれを表示することはなく、「ベートーヴェン交響曲第九番もおすすめですよ」という見当違いの返答が得られるばかりだ)を苦しめることがないように」

とのことで、再びこの場にお目見えすることが出来たという次第でございます。おかげで臑と肱と額にIII度の火傷を負い、真皮全層や皮下組織は焼け爛れ、どころか炭化壊死してすらいるのですが、これも男の勲章というものです。

(今回も、本題に入るのが遅くなりそうな気がする……!)

おとついに、また『崩れる本棚』メンバーが若干名集まる機会があり、次の原稿の進捗状況その他について話し合いました。飲みの席で、店は、まあありていに言えばモンテローザグループの、何ということもない店だったのですが、そこで社長(慧眼)が、

「チミィ、彼らの仕事を見ていたまえ。こういう場でも、人間を観察し勉強することが肝要だからな」

とおっしゃられたので、私は店員の観察を怠らなかった。

モンテローザ系のある会社では、いわゆる「ピンポン」、赤外線などで注文などを受ける装置があるが、それを完全に取っ払ったところがあるという。なまじい「ピンポン」に頼ることが、店員のお客様への注意をむしろ削いでしまい、「ピンポン」が鳴らなければお客様が氷などを零してしまっていてもテーブルを拭くことすらなくなってしまう、つまり人間性の堕落だ。

「チ~ミチミチミィ。目をかっ開いてよく見ているがいい。機械に使われる人間、それだけで良いのか。人間が主体的に人間と関わり合う。それが人間というものだ。このことだけを取ってみても、ただ単に社の飲み会だなんていう認識に堕している人間とそうでない人間、その差が成績に歴然と現れて来るのだ」

人間は主体的に、つまり意志を持って人間と関わり合う、それが常人の認識というか最終目標というか理想像としてあるのだが、それを全て擲ったのがベケットだ。ベケットの小説空間の中では人が正常に観念を持つことが許されない。今、あえて「小説空間」だのという言葉を使ったけれども、実はそんな澄明な表現が通用する場でもなく、いろんな観念が単に言葉として言葉の運動をそのままにしているだけの何というかもやもやした何かでしかない。

事の次第これはすべて引用文ピム以前ピムとともにピム以後の三部にわけて聞いたとおりにわたしは語る

(サミュエル・ベケット『事の次第』片山昇訳、白水社、7p.)

すげーいちいち解説的なことを言っていって本作を台なしにするのであれば、たとえばここは「すべて引用文」で「聞いたとおりにわたしは語る」のだから、書き手というか語り手というか、の、主体的な「発想」みたいのが全く封じられている。そして、繰り言のようにそのことは度々強調される。

それから肘つき身を起こすこれも引用わたしの姿が見えている袋のなかに今は袋の話をしている腕を袋につっこんでなかの罐詰《かんづめ》を数えてみる片手では不可能しかしなんとかやってみるいつかは可能になるだろう

(同、10p.)

腹|這《ば》いのわたしの姿が見える目を閉じる青い目じゃない後ろにある他の目をそして腹這いのわたしを見るわたしは口を開く舌が出る泥のなかに入る一分二分これで喉《のど》の渇きがとまるこれで死ぬ心配もなくなったこの途方もなく長い時間の間

(同、11p.)

ここに出てくる「わたし」は、半身不随かわからないが、右手右足しか動かすことが出来ない。腹這いで、そのうち力尽き、泥の中に崩れ、口を動かすことしか出来ない。

このように力ない「物語」が、一体私達に何を与えるというのか? 禅問答じゃないけど、きっと何も与えないことを与えてくれるだろう。君達は、一度として、情報が即「与えられる」性質のものであることが、おかしいと思ったことはないだろうか? なんというかな、難しいけれども、例えば「めざにゅ~」とか見てたとして、えんえん自分に対して最新のニュースとかの情報が与えられていく、はずなのに、どこかそれは停滞して見える、何というか、与えられるものであるけれども、その流れというか運動自体はどこかに固着しているかのようで、なんら新しい「感触」を憶えることがない。それはたぶん、一時、何かが滞留することによってのみ、変わることが出来るのではないか。

そしたら社長に「でもめざにゅ~って、こないだ終わったよね?」とつっこまれた。しまった! ニュース・情報番組、早起きさんの味方「めざにゅ~」は、2014年3月28日を持ちまして放送終了だった。

恥ずかしさをごまかすというわけでもないが、そのあとトイレに入ったら相田みつをの書のコピーが目の前にあった。

ひとの世の

しあわせは

人と人とが逢う

ことからはじまる

よき出逢いを

(みつを)

と書かれていた。こんな字と内容であるにもかかわらず相田みつをが何かしら不具を抱えていたという事実はないし、それはベケットも同断だ。(つづく)